九州・山陰への旅?―山陰海岸沿いに走るJR山陰線の列車と海 - 彦四郎の中国生活

 午前7時に宿泊施設を出発し、途中コンビニでお握りを買って朝食。太田市街の南方面にある「石見銀山跡」を目指す。30分ほどした8時に「石見銀山世界遺産センター」に到着した。センターの背後に山々が見える。このなかで最も高い山が「仙ノ山」(銀峰山)。1526年にこの山の沖合を船で航海していた博多の商人・神屋寿禎が、この山が少し輝きがあることに気がつき、この時代この地を支配していた戦国大名大内氏の援助も得て、銀山の開発を始めた山である。その後、付近の山でも銀の鉱脈がいくつか見つかり、当時、世界でも屈指の銀山として銀採掘がされるようになったという。

 8時半よりセンターの展示閲覧が開始された。石見銀山とその周辺(積み出し港―温泉津の港)などの場所を示すジオラマ(模型)、間歩(まぶ)といわれる坑道や露頭掘りをされた場所の写真。この銀山の銀貨の展示。

 大航海時代の世界の覇権をポルトガルとスペインが争っていた16世紀(1500年代)、スペインは大西洋を越えてアメリカ大陸を発見し、中南米を征服し、さらに太平洋を越えてフィリピンにも拠点を築いた。そして、南米・ボリビアでの銀の産出地を支配し、さまざまな物産をヨーロッパにもちこみ貿易を行い、巨万の富を築いていた。これに対しポルトガルは、アフリカの喜望峰を廻り、インドを拠点として、さらに中国に進出し。マカオをその拠点地として、日本とも交易を始めた。そして、日本にキリスト教の布教や鉄砲を商品として売り込み始めた。1550年頃のことである。

 このころ、世界での交易が盛んとなり始め、ポルトガルは「中国の生糸や陶磁器を日本にもちこみ交易し、その代価として日本の銀を求めた」。当時、銀は金よりも価値が高かったという。そのわけは、金は自然金として地表付近や地下に存在し、特別な技術を用いての精錬技術(金と他の物質をより分ける)がなくてもよかったが、銀は特別な精錬技術がなくては「精錬し銀として取り出す」ことが難しい鉱物だったからだという。その後、「灰吹法」という精錬技術により、飛躍的に銀の生産が高まり、金の方が価値が高くなったようだ。

 かってイタリア・ベネチアから中国に来ていたマルコポーロが「黄金の国ジパング」と13世紀(1400年代)にヨーロッパに紹介したが、「銀」が世界の交易鉱物として、交易の支払いとして流通しはじめたため、世界的に「銀の需要」は高まるばかりだった。この1540年〜1640年の100年間、日本は「世界の銀産出の3分の1」の量を産出していたという。ポルトガルやスペイン、ヨーロッパ諸国はがぜん日本という国に注目していたのだろう。

 当時、坑道内に入る鉱(坑)夫たちは、小さい皿に油を入れ、ロウソクの芯のようなものを燃やして灯りとしていたようだ。当時の間歩(銀坑道)の入り口の場所の写真や、坑道(間歩)の掘り方の3つの方法(?露頭掘り?斜め下に掘り、銀鉱脈に至る?水平(横)に掘り、銀鉱脈に至る)が説明されていた。

 ―鉱床のできかたの説明?マグマに熱せられた地下水が熱水となり、岩石中に含まれる金・銀・銅を溶かしながら地表の割れ目や断層に沿って上昇する。それが地表近くのところで冷却されて、金・銀・銅を多く含む鉱床となる。

 この説明を見て、「日本は火山の多い国であり、断層が多く地震も多い。マグマが地表近くまで迫る国土でもある。このため、金・銀・銅という鉱物が世界の中でも特に豊富に産出する国となった」のだろうということが理解できた。まさに、「黄金・金銀銅の国ジャパン」だったのだ。江戸時代に発達した、石見銀山の町「大森の町並み」の写真が掲示されていた。

 この黄金の山「石見銀山」を巡って、1540年代より、中国地方で覇権を争う戦国大名たちが、その争奪を巡って激烈な争いを繰り広げた。大内義隆(陶久隆)、尼子晴久毛利元就の3勢力などである。

中国地方の覇権を獲得した毛利氏によって石見銀山は支配されたが、その後の豊臣秀吉の全国制覇により、この銀山は毛利氏と豊臣氏が折半支配をすることとなった。1600年の関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、以後、ここを「天領」(幕府直轄)とし、大久保長安を派遣し、代官所を置いて銀山を支配した。江戸時代に入り、新たな間歩が多く開かれ、銀の産出が増大、シルバーラッシュとなったと記されていた。

 1500年代より、石見銀山の周辺には、「山吹城」をはじめとして、多くの城が築かれ、各勢力が攻防を繰り返したので、城跡も多く残されている。

 1時間ほどセンターで展示説明を見聞きし、石見銀山の大森地区に行くことにした。